復活した伝説のロックバンドTHE YELLOW MONKEYの全て

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2016年1月8日に再結成し、再び脚光を浴びることになった伝説のロックバンドTHE YELLOW MONKEY

決して順風満帆ではなかったイエローモンキーのこれまでの軌跡を追っていきたいと思います。

僕がイエローモンキーの音楽に出会ったのは、2001年8月。

イエローモンキーは、2001年1月31日に発売したシングル『プライマル。』をもって、活動休止に入っていました。

悔しいことに、活動休止後に猛烈なスピードでイエローモンキーの音楽に引き込まれていきました。

決して皆がハマらないであろう曲調、決してストレートではない捻くれた歌詞

でもなぜか頭から離れなくなる声とメロディー。

聴けば聴くほどその壮大な世界へと引き込まれていきます。

活動再開を願っていたファンも多かったですが、3年以上の活動休止を経て、2004年7月7日に解散を発表しました。

僕にとって幻のバンドとなってしまったイエローモンキー。

解散した後も、イエローモンキーの楽曲に触れない日はほとんどありませんでした。

いつか見てみたい、そんな願いをずっと持ちながら過ごしていると…

何と申年の2016年1月8日、再結成の発表となりました!

これからもイエローモンキーの曲が聴ける!

ライブも見れる!

そんな、とても大好きなイエローモンキーについて書こうと思います。

イエローモンキーのメンバー紹介

ボーカル・吉井和哉(ロビン)
イエローモンキーのフロントマン、吉井和哉。
楽曲はほとんどこの吉井が作っています。
イエローモンキーの最大の特徴である、すこしクセのある楽曲は、この人が生み出しています。
特徴のあるライブパフォーマンスは、吉井だからかっこいい。

ギター・菊地英昭(エマ)
ギタリスト・エマ!
後に紹介するドラマーアニーの実兄。
イエローモンキーの前に、キラーメイというバンドでメジャーデビューしています。
ライブでは毎回ボーカルの吉井と絡み合う姿がとても美しい。
男性同士で唯一許せる絡み合いです。

ベース・廣瀬洋一(ヒーセ)
ロックンロールゴリラ・ヒーセ。
グワングワンとうねるベースを弾くヒーセ。
ただのルート弾きはしません!
楽園のベースとかマジでかっこいい!
基本ヒーセのベースはとてもかっこいいです。
声はかなりハスキー。

ドラム・菊地英二(アニー)
イエローモンキー最年少メンバーで、ギターのエマの実弟。
こちらもキラーメイでメジャーデビューした経験を持っています。
イエローモンキーの縁の下の力持ちで、リズム感は人間メトロノーム並み。
ライブではいつの間にか裸になっていて、吉井に『原始人』と紹介されたこともあります。
ロン毛がトレードマークであり、デビューからずっとロン毛でしたが、イエローモンキー後期(解散前)では一時期短髪のヒゲになりました。
その後はまたロン毛に戻っています。

イエローモンキー結成秘話


1988年に結成し、元々別のボーカリストが在籍していました。

松尾賢一という人がボーカリストで、当時吉井は元々ベーシスト。

ヒーセ加入によってギタリストへ転向します。

その後、音楽性の不一致により松尾が脱退し、吉井がボーカルを務めることになるのです。

ギターにエマを入れるということになり、吉井がエマへサポートギターを務めるようお願いをします。

とりあえず練習することになりましたが、吉井の歌があまりに下手で、エマはすぐに辞めたいと言い出します。

吉井は「うまくなるからもうちょっと待ってくれ」と告げ、とりあえずエマはバンドに残ることになります。

そんな感じでデビューメンバー4人が揃うのです。

そして1989年12月28日、このメンバーで初のステージに上がり、12月28日はイエローモンキーにとって特別な日となるのです。

グラムロックを追求

デビッド・ボウイやレッドツェッペリンなどを彷彿とさせるルックスで、マジでデビッド・ボウイパクっている感じです。

インディーズ時代の曲で、『HANG ONTO YOURSELF』という曲がありますが、曲名丸々同じ曲あります。

ルックスも全員背が高く、そして全員ケバい!

ビジュアル系っぽい感じです。

1991年12月28日のライブでの吉井。
こんなルックスでした。

インディーズ時代

ルックスが良いためファンの9割は女性で、吉井のオカマキャラも受けて人気が出ていきます。

ファーストアルバムに収録されている『CHELSEA GIRL』、『SUBJECTIVE LATE SHOW』、『真珠色の革命時代』、セカンドアルバムに収録されている『LOVE IS ZOOPHILIA』、『SUCK OF LIFE』等もこの当時からの曲です。

インディーズアルバム『BUNCHED BIRTH』は名曲揃いで、ライブで圧倒的人気を誇る『WELCOME TO MY DOGHOUDE』や、イエローモンキーで吉井が初めて書いた曲で後に最レコーディングされた『LOVERS ON BACKSTREET』の原曲が収録されていて、ファンは絶対聴いてほしいアルバムの一つです。

インディーズ時代からすでに素晴らしい名曲たちがたくさんあります。

「25歳までデビューできなかったら音楽を辞める」と言っていた吉井でしたが、ギリギリ25歳の時にデビューが決まり、1992年に26歳で念願のメジャーデビューとなります。

メジャーデビュー後は売れない時期が続く

1992年5月21日、1stシングル『Romantist Taste』でメジャーデビューを果たします。

記念すべきデビューシングルのジャケット。

PVは訳の分からない映像からスタートします。

ケバい吉井。

これは売れるのでしょうか?

当然と言えば当然ですが、まったく売れませんでした!

曲の歌詞も変わっていて、PVもまったく訳が分からない感じ!

決して万人受けする感じではありません。

デビューから1ヶ月後、早くもファーストアルバム『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE』をリリースします。

今でこそ名曲たくさんのこのアルバムですが、当時はこちらもまったく売れず。

インディーズ時代のファンからも酷評を受けることも少なくありませんでした。

吉井自身も、当時プライベートで様々なことがあり、自身の自伝で「声が腹から出ていない。怯えている感じ。」と発言しています。

その後1993年3月1日、セカンドシングル『アバンギャルドで行こうよ』とセカンドアルバム『未公開のエクスペリエンスムービー』をリリース。

女装した吉井。

後にライブでこの姿を披露しています。

吉井的に、アバンギャルドは売れると思っていたそうです!

しかしこれもヒットせず。

アルバムも、今聴けば名曲揃いですが、当時はやはり売れず。

しかしライブの観客動員数は増えていき、1993年6月には日本青年館で初のホールライブを行いました。

このライブは、イエローモンキー初のライブビデオ『Life Time・SCREEN~追憶の銀幕~』としてリリースされました。

裸の女性二人をステージの両サイドに立たせるという衝撃的なオープニング(現在では完全NG)演出を行いました。

ライブの様子。

インディーズ時代の曲も交えて行われたライブです。

その後1994年2月21日、サードシングル『悲しきAsian Boy』をリリース。

この曲は後にライブの定番曲となる名曲です。

こんな感じでライブ後半で『THE YELLOW MONKEY』のでかいロゴとともに始まる曲です。
(復活後のライブでこれを見て泣いてしまいました)

しかしこれも売れず!

約4000枚しか売れません。

世間はなかなか厳しい。

同年3月1日にサードアルバム『Jaguar Hard Pain』をリリース。

このサードアルバムは、吉井がかねてから希望していたコンセプトアルバムのリリースとなりました。

これも名曲揃いですが、やはりこちらも売れず。

吉井はジャガーというキャラクターになりきり、坊主姿へとなります。

ライブの観客動員数はやはり順調に増えていったため、ヒット曲なしのままではありましたが、翌年に初の日本武道館公演が決定します。

武道館公演も決まり、路線変更へ

日本武道館公演が決まったのにも関わらず、未だにヒット曲なし。

これではまずいということになり、スタッフとメンバーの間でミーティングを重ねます。

「これまでのように好きなことだけをして10万枚で終わるか、それともオリコン1位を狙うか」という質問に対して、「オリコン1位を目指す」という結論を出したイエローモンキーのメンバー。

ついに路線変更を図ります。

まずは若干売れ線を意識した4枚目のシングル『熱帯夜』をリリース。

こちらは初めて1万枚を超えるセールスとなりました。

1995年1月21日、シングル『Love Communication』をリリース。

売れ線を意識して一気にポップ路線となり、初めてオリコン30入りを果たしました!

一気に約5倍の5万5000枚の売上となり、スマッシュヒットとなります。

1995年2月1日、4枚目のアルバムとなる『Smile』をリリースします。

こちらも全体的にポップな曲が多く、オリコンチャート4位を獲得しました!

このアルバムに収録されている『エデンの夜に』と『ヴィーナスの花』は吉井がシングルへ強く勧める曲でしたが、スタッフから「弱い」と言われ、キレて『Love Communication』を作ったという逸話があります。

確かにシングル曲としては弱い感じもありますが、どちらもイエローモンキーの名曲として位置づけられることは間違いありません。

このアルバムを引っ提げて初の日本武道館公演となります!

夢の大舞台が始まります!

「夢の大舞台へようこそ!今日はゆっくりたっぷりとイエローモンキーの世界を感じて帰ってください!」という吉井のMCがマジでかっこいい!

この日のライブでファーストアルバムに収録されている『Oh! Golden Boys』を初めてライブでやりました。

「今までずっとやらなかった曲があります。なぜかと言うと、ここで初めてやりたかったからなんだ!」と力強く言う吉井でしたが、原曲はドラムが二重で録音されているため、ライブではやりづらい曲だっただけだと思ったのは僕だけでしょうか…。

路線変更が大成功し、ここから一気にブレイクとなりました!

30歳までブレイクしなかったら音楽を辞めると言っていた吉井でしたが、ギリギリセーフでブレイクとなります。

1995年はかなりの飛躍の年となり、7枚目のシングルとなる『追憶のマーメイド』はオリコントップ20入り、続く8枚目のシングル『太陽が燃えている』はオリコントップ10入り。

その勢いでリリースされたアルバム『FOUR SEASONS』は初のオリコン1位を獲得します!

このアルバムはイギリスでレコーディングされたものであり、イエローモンキーが洋楽っぽくなってきたきっかけとなるアルバムですね。

イエローモンキーを聴き始めの人には一番聴きやすいアルバムではないでしょうか。

僕もけっこう最初の方に聞いたアルバムです。

イエローモンキー特有のエロさもあり、そして壮大さも兼ね備えたアルバムになっています。

1996年になり、2月29日に9枚目のシングル『JAM/Tactics』をリリース。

80万枚を超える大ヒットとなります!

Tacticsもアニメ『るろうに剣心』のエンディングテーマに採用され、バンドの人気は不動のものに。

10枚目シングル『SPARK』も大ヒット。

レコード会社移籍が決まり、新たなイエローモンキーの歴史が始まることとなります。

日本を代表するロックバンドへ成長、最高傑作のアルバム誕生


移籍後初のシングルとなった『楽園』。

イエローモンキーを知らなくても大体の人は知っている曲ではないでしょうか。(発売当時は)

この年の12月28日、『メカラウロコ7』という伝説のライブが行われます。

ブレイク後、過去の曲だけでもいいライブができるはずだと、メンバーがやりたい曲だけでやったライブです。

吉井は、このライブを伝説のライブと評しており、本気で「死んでもいい」と思ったそうです。


どうやら金をかけてくだらない演出をしたようですね!

1997年になり、イエローモンキー史上、いや、日本ロック界の最高傑作と言われたアルバム『SICKS』がリリースされます。

オリコン初登場1位を記録し、イエローモンキーのアルバムの最高売上を記録します。

吉井自身、このアルバムは「最高のアルバム」と評し、収録曲の『紫の空』の歌詞の一部「この恋は5足で1000円の靴下さ」という部分を、「こういう表現ができるようになった」と自負しています。

7分を超える名曲『天国旅行』は圧巻。

イエローモンキーにしか表現できない曲。

「身体バラバラ、溶けてダラダラ」の歌詞のように、聴いていると身体が本当に溶けそうになるくらいの名曲です。

解散の要因!?フジロックフェスティバル97の悪夢

フジロックフェスティバル97に出演したイエローモンキー。

レットホットチリペッパーズ(レッチリ)やレイジアゲインストマシーン、フーファイターズも登場した年。

レイジの次がイエローモンキー、トリはレッチリ。

台風の影響により、天候は最悪でした。

大雨と強風という凄まじい状況の中、中断しては再開するを繰り返し、ライブは行われました。

死人が出てもおかしくないというその日の天候。

イエローモンキーが登場した場面の空気は最悪。

当時のセットリストはこちら。
1.SUCK OF LIFE
2.A HENな飴玉
3.See-Saw Girl
4.TVのシンガー
5.紫の空
6.RED LIGHT
7.天国旅行
8.BURN
9.LOVE LOVE SHOW
10.悲しきAsian Boy

アルバム曲が中心のセットリストで、観客は前列の女性ファンたちが盛り上がっているのみ。

あとの観客は冷めた表情で、そしてイエローモンキーのメンバーたちに怒号や罵声が浴びせられるという状況。

天気の悪さもすべてイエローモンキーのせいみたいな空気になっていました。

全ての要因がイエローモンキーに悪く働いてしまったんです。

このフェスの挫折感が、吉井にとって解散の要因の何%かを占めると言っています。

少しずつ狂っていく歯車

1998年2月、シングル『球根』をリリース。

初登場1位を獲得したものの、その後のセールスが伸び悩みます。

3月、アルバム『PUNCH DRUNKARD』をリリースし、4月より、113本を1年かけて回る『PUNCH DRUNKARD TOUR』が始まります。

このツアーは後に「ひたすら打たれ続けたツアー」と表現するほどつらいものになってしまいます。

ツアー中に4枚のシングルをリリースしましたが、アクシデントも続き、吉井が過労で倒れたり、スタッフの事故死等、ツアー中にメンバーにとってつらいことがいくつも起こってしまうのです。

バンドとしてもスランプに陥り、デモの音を超えられないという日々。

ライブの選曲も流動的になり、方向性が定まらない。

シングルの『球根』が意外にも売れず、慌ててアルバムからシングルカットとなった『離れるな』は、ブレイク後最低の売り上げとなってしまいます。

シングルカットの話になったとき、メンバーも「離れるなはシングル向きではない」と難色を示したそうですが、ライブでの人気もあったことからシングルカットとなります。

吉井自身も自伝で、「シングルカットは裏目になると思っていた」と語っています。
※ちなみに『離れるな』は僕的にはイエローモンキー史上ベスト3に入る名曲だと思っています。

そのほか吉井のプライベートでもつらいことが重なり、本当に大変なツアーとなってしまったようです。

少しずつ、これまで順調に来ていたバンドに危機が訪れることになります。

もうやめたい

8枚目のアルバム『8(ハチ)』のレコーディングのためイギリスへ行ったイエローモンキー。

しかし当時メンバーは多忙を極め、スタジオに吉井一人になることが多くなります。

少しずつメンバーとの温度差を感じ始めた吉井が、帰国後に「おれをクビにしてくれ」と事務所社長に頼んだそうです。

しかし、フロントマンがやめるとかありえないですよね。

とりあえずそのまま存続となりますが、2000年3月に吉井が、「もうやめたい」という発言をします。

話し合いの最中、吉井と同い年で友人の中原繁の死の連絡が入ります。

中原は、『JAM』を大ヒットに導いた人間で、JAMを絶対ヒットさせると奮闘したスタッフ。

当時尺が短かったミュージックステーションで、JAMをフルで歌わせるために交渉して尺を取り、イエローモンキーのブレイクに欠かせない人間の死です。

このことがイエローモンキー解散をいったん中断させ、「少し休もう」ということで活動休止という結論になります。

そして2001年1月31日リリースの『プライマル。』を持って、活動休止となりました。

3年の時を経て、解散へ

その後メンバーそれぞれが別々の活動をすることになります。

吉井も2003年10月1日、『YOSHII LOVINSON』名義でソロ活動を開始。

とりあえず吉井の歌が聴けるということで大興奮しました。

しかし、聴きたいのはやはりイエローモンキーの音。

吉井のソロもいいのですが、バンドの音が最高。

吉井の声なのに演奏がメンバー以外の人間がしていると思うと、どこか寂しい。

復活してほしいという願いもむなしく、2004年7月7日、ついに解散の発表となります。

吉井は、「とにかく解散は僕のわがままで、僕の責任」とし、メンバーも吉井を追い込ませて、感情を吐き出させてやれなかった」「もっと力になってやりたかった」
と互いに擁護する発言をしていました。

解散後も、吉井とそれ以外のメンバーの交流はあり、吉井の有料サイトでよくメンバーと呑んだとかのブログがアップされていました。

12年の歳月が流れ、再結成!


申年の2016年1月、謎のカウントダウンサイトが出現します。


ヒーセも、イエローモンキー時代の「廣瀬」表記に戻すと発表。

これはもしや復活か!?と話題を呼びました。

そして…


ついにイエローモンキー再結成!

涙が出るほどうれしかった!

これでやっとイエローモンキーを見れる!

再結成後初の新曲『ALRIGHT』の歌詞で、「月日は流れて 力を集めて ひとつに集めて」とは、イエローモンキーのメンバーのことではないでしょうか。

「あなたと別れて 激しく求めて ひとつに生まれて 無数に分かれて 夜空を見上げて もう一度運命のタイマーを回して 今夜準備オーライ!」

イエローモンキーのメンバーと別れたけど未練がある イエローモンキーとして世に出たけども解散して別々の道を歩む でも夜空を見上げながら、もう一度イエローモンキーとして活動しよう!ってことなのかなと勝手に思っています。

メンバーみんな50過ぎてもうおっさんになってしまいましたが、かっこよさは変わりません。

これからもずっと、イエローモンキーのファンとして生きていきたいと思います。

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